2008年6月29日日曜日

第二章 遭遇 前編





もうどれくらい歩いただろうか。
踏み入れた森の景色は一向にかわる様子を見せない。まるでこの森は永遠に続いているではないかとさえ思ってしまう程に深く延々と広がっており、ある意味無限に増殖を繰り返す森自体が禍々しいある種の生命体のようにも感じられ、男は体に伝う汗とは別の汗が脇から横腹に流れ落ちるのを感じた。


「畜生。そもそも俺は森の奥に何を求めて歩いているんだ。一体俺は誰でこの島はいったい何だっていうのだ。」


そう思うと歩くこと自体がバカバカしく感じられ、男はその場に座り込むと鬱蒼と茂る亜熱帯地域特有の椰子やガジュマルの木々から覗く青とも紫とも判断のつかない、それでいて不思議と懐かしさを感じさせる空を見上げた。
空は淀むことなく晴れ渡り、都会の何十、何百という空調機器からダラダラと吐き出される熱気により醜く霞む空とは大違いだった。


「都会だと。俺は都会から来たのか。一体ここは何処だっていうのだ。」


男は何も思い出せない自分自身と全くもって理解不能な現状に対して苛立を抑えることが出来ず、足下に落ちていた木の枝を荒々しく拾い上げると、身近にあった木々を次々と打ちつけた。その木々を打つ音が空しく森にこだまし、男の苛立をよりいっそう高めた。
しかも記憶を辿ろうと考えれば考える程に、頭の片隅にかすかに揺れる記憶の断片が掌で水を掬った時のようにスルスルと流れては消えていくような錯覚をも感じ、男の苛立は次第に恐怖へと形を変え、結局はその場から動くことすらできなくなってしまった。


その時、森の奥から微かな音が聞こえたような気がした。
枯れ葉を踏んだような乾いた音のように感じたが確かではなかった。
するとまた音がした。今度こそ間違いなくはっきりと枯れ葉を踏む音が聞こえた。

男は森に入ってから初めて感じる自分以外の気配に恐怖よりもむしろ喜びを感じ、立ち上がると音がする方向へと走り出そうとした。


「身を隠せ。一刻も早く身を隠せ。」


突然、体の本能的な部分が猛烈な信号を発し始めた。
あまりにも突然に発せられた意外な信号に男は狼狽え踏み出した足をどうにか引き戻すと近くのガジュマルの太く黒々とうねる根に体を潜り込ませた。

音はゆっくりとではあったが確実にこちらに向かってくる様子だった。人間の足音のようにも聞こえるが、その音は人間の足音特有の等間隔で軽やかなものではなく、不規則で一歩一歩に全体重がかかっているかのように重く沈み込み、しかもその一歩一歩には何らかの意思や感情が備わっているかのような暗く鈍重な音だった。


続く

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