2008年6月28日土曜日

第一章 鼓動




長谷川明美は、息が弾んでいた。
10本目のインターバル。残り、30メートル。
もう、やめたら?、ともう一人の自分が言う。
弱気な声に耳を傾けるほど、ゴールラインは、果てしなく、途方もなく遠くに感じられる。徐々にペースダウンしてきた自分を自覚する。

そう、それでいいの。ほら、だんだん楽になってきた。

次の瞬間、それは、体全身から一斉に伝えられる情報にのみ意識が集中しているからだ、と奥に眠るもう一人の、原始的な彼女が大声で叫んだ。ハッとした彼女は気を取り直す。限界は肉体よりも精神が先にくるというような言葉をどこかの有名アスリートが言っていたことを思い出し、彼女は最後の力を振り絞る段階へ突入する瞬間が今だと思い直す。体からの信号を無視するために、彼女は自分との対話へと意識を向け始めたー。

先を、みるの。
あと、10メートルなのではない、あともう200メートルなのよ。
「苦しいから、もうやめてくれ。」意識の中にいるもう一人が言う。
苦しいのではない。血中の乳酸が一時的に増加しているだけだわ。
最近のスポーツ理論では、乳酸は疲労の原因というより、むしろ疲労を和らげてくれる効果のある物質だっていうじゃない。今、私は、もっているすべての力を使い果たそうとしている状態なのよ。そのエネルギーの不足を乳酸は補ってくれているのよ。この段階は、限界ではなく、境界。一線。未知なる領域へ踏み出すための扉なのよ...。
「もう、やめて!限界よ。」

対話へ向けられていた意識の集中が、視覚からひっきりなしに飛び込んでくる単調な情報の処理へまた向き始めたとき、彼女は既にゴールラインを越え数メートル先を走っていた。



シャワーを浴びながら、明美は、自分の胸に手を当ててみた。心拍数は今は平常を維持している。鼓動は静かだった。気のせいかしら?彼女はふとそう思いながら、シャワーを止める。

七時三十七分。
髪にドライヤーを当てながら、更衣室の壁にかけられている、1から12の数字が刳り貫かれたブナ材にカバーガラスを重ねてあるシャレた壁掛け時計に目をやる。

彼女は、昨夜から一睡もしていない。眠れなかったのではない。眠くなかったのだ。何故だか分からないが、妙に頭が冴えている。それと合わせて、昨日の夜から、一定間隔の周期で彼女を訪れる胸騒ぎのような、そわそわする居心地悪い感覚がぬぐえないでいた。特別、不快という感じでもないが、どうも気になる、という、曖昧だが、取るに足らないことだといって気にする必要はないと断定できることでもないように感じていた。

特にこれといって気になることがあるわけでもなかった。いや、正直に言えば、ひとつだけ、ずっと気になっていることが彼女にはあった。ただ、普段の生活のなかでは、あえて自分からそのことについて思いを巡らすことを回避していたのかもしれない。

あの男と連絡がとれなくなってから、3ヶ月が経とうとしていた。

こういうことは珍しいことではなかった。連絡がとれなくなることはこれまでにも度々あった。以前などは、半年ほど電話も繋がらず、メールの返信すらないことがあった。そういうときは、大抵、どこかの国へ仕事でいっているか、旅をしているときだ。彼が何の仕事をしているのかは、明美はまだよく知らない。彼女自身、そのことについて、特段知ろうとも思っていないようでもあった。

そういうこともあって、彼女は彼との音信不通には慣れていた。ただ、今回は、何故だか、ひっかかるものが、どこかにあるような気がしていた。昨夜の胸騒ぎのようなものが、ここ1週間に3回ほど自分の胸の奥から沸き起こってくる。

ふと、昨日届いた男からのメールの一文が頭の中に浮かんでくる。

「見つけたよ。ようやくだ。」

心臓が速くなっていく。
鼓動が走りだす。

更衣室のドアを閉め、彼女はグランドを後にした。

(続く)

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